ひびのなやみあれこれ

あたまでせいりできないぎもんをかく。

なぜ、1日中、電気を使う方へ向かっているのか?(答えなし)

電子化と電気自動車の普及により、1日中、電気を使う方へ向かっている。

昔、昼の余った電力を蓄電し、夜に回すような考え方もあったと思うが、今は、昼間の電力が足りないという報道がある日があり、夜は充電やビックデータの保存に電力が利用されていると思う。

石油などの化石燃料を輸入し、発電所が老朽化している日本にとって、世界の波にのることは果たして正解なのだろうか。

なんでも電子化するのではなく、電力や環境負荷を紙媒体と比較して考え、自動車はハイブリッドの技術を高める方向で行った方が良いと思う。

世界に追いつくことが、最善だという考え方は終わりにしなければならないかもしれない。

あと一つ気になることが、電子化と電気自動車の普及により、電力が必要である。そのため、自然エネルギーによる発電を進めている必要があるが・・・。そして、原子力発電の必要性をわざと高めている気がする。これは、今の流行っている政治と金が影響している気がする。最近、放射能漏れについて多少報道するが、放射性廃棄物の課題は一切、テレビが報道されていない気がする。

大丈夫なのか、日本??

なぜをどこまで追究するのか?(中学数学編)

大学時代、物理化学の講義を受けた。教授は楽しそうに式をスラスラと書き、説明していた。残念ながら、私の脳力では理解できなかった。そんな大学時代の経験を積み重ねて、なぜを追求する時に限度があると感じるようになった(もちろん脳力が高い人は問題ないと思うが)。

最近の中学数学は、公式が成り立つための証明を理解させる教育を重視させていると、教科書を見ると感じる。具体的な数字を出して軽く説明しているのではなく、文字式を使ってしっかりと説明している。そして、この証明は、過去に中堅私立高校入試で見たものもある。これらを果たして何%の生徒が理解できるのか? 身近な中学生に聞くと、10%未満である。そして、その証明の説明には時間がかかるため、公式を利用して解く時間が削られる。その結果、証明は理解していないし、利用もできない(または解くスピードが遅い)。最悪、何をしたか覚えていない。これは、早急に改善すべき問題だと考える。もし、証明をさせたいならば、学ぶ事柄を減らすか、授業時間を増やすべきだろう。

追究は大切だが、脳力が必要である。どこで、境界線を引くのかは非常に難しい問題である。

もしかしたら、脳力が高い人々が集まって、数学を好きになってもらうために、善意で証明を増やしたのかもしれない。しかし、現状は数学嫌いが加速している。やはり、分かり合えないだろうか。それか現場の声を聞いたらどうだろうか。

 

幼い頃からものを覚える習慣は大切

私は、知識と知識が結びつき思考力につながると考える。

そのため、ものを覚える感覚や習慣はとても大切だと思う。

最近、こんな遊びをする。

A君(小学校高学年)「ぼく、阪神ファンです。」

私(中年のおっさん)「じゃぁ、阪神の選手を言い合おう。」

そして、新旧問わず、阪神の選手を交互に言い合う。

そして、ここ10年、プロ野球の試合を2試合ぐらいしか見ない私が勝つ。

A君は、今季のスタメンさえ覚えていない。

勿論、生きてる年数の差があるが、もう少し頑張って欲しかった。

案の定、A君は勉強に関する暗記も苦手である。

このような例を最近多い。そして、中学校でも暗記を苦手とすることが多い。

上っ面だけで楽しんでいるだろうか。覚えようとしないのだろうか。

以上のことから、私は、幼い時から好きなことで良いので、ものを覚えることをさせた方が良いと思う。そして、子どもが覚えたことを、親が大袈裟ぐらいに褒めてあげると良いと思う。

そうしたら、覚える楽しさを感じると考える。

「そんなことより、都道府県を覚えなさい。」ではなく、「じゃぁ、その好きな漫画のキャラクターは何人言える?」と言って、少しでも言えたら褒めてみてはどうでしょうか。また、親が覚えて勝負するのも良いかもしれない(幼いときは負けてあげて)。

長々と失礼しました。

 

 

 

スマホ普及と知識なき思考力教育によって変わったこと

「私は忘れやすいから、何度も復習しています。」と言う人は減った。

「私は忘れやすいから、覚えません。」と言う人が現れた。

(覚える意識がない人が増えた)。

物事を覚えてなくても、恥ずかしいと思わなくなった人が増えた。

(何度も教えたことを忘れても何とも思っていない人が増えた。)

思考力は、知識と知識のつながりから生まれると考えている私にとって、この状況は絶望しか感じない。

この原因として、脳が処理できない情報量を流すスマホの普及と、覚えなくてもよいような教育を小学高学年から始めたことが一理あると考えている。

知識なき思考力教育の問題点2

それは、生徒(または児童)と先生との信頼関係が薄れることである。

中学校の定期テストでは、ここ3年間で、思考力重視という観点から見たことない問題を出題する割合が高まった。その結果、一部の生徒は、高得点を目指そうと色々な問題を解いたり、英検を勉強したりして対策をしている。しかし、勉強が嫌いまたは興味がない生徒は、定期テストに勉強したことが出ないことで、勉強への意欲が下がってしまい、とうとうテスト期間中さえも勉強しなくなる。そして、テストに出ないなら、授業を聞いても意味がないと感じだし、授業も聞かなくなる。それを理解しているのか、学習指導要領通りであるから問題ないと考えるのか分からないが、先生の中には、私が教えたことを生かせば問題が解けると言っている。教えたことを生かし応用できないのは生徒が悪いかのように。これでは、生徒と先生の信頼関係が築けない、または薄れていくだろうと思う。この教育が始まって、私が知っている中学校の定期テストの平均点は70点〜60点から60点〜50点ぐらいに下がっている。生徒たちがかわいそうである。

知識なき思考力教育の問題点1

それは、学びを好きになる機会を減らしていることである。

物事を好きになる時に、その物事に関する知識を集めていく。そして、それらをつなげて思考(妄想)すると思う。戦国時代の武将や幕末の志士たちを語っている芸能人は、色々な知識を蓄え、考察して楽しんでいる。これが、本来の学びではないのか?少しでも関心を持たすためには、教師が知識を与える必要がある。小学6年生に「貴族と武士のどっちになりたい?、ネットで調べて発表して。」と初見で言われて、果たして興味を持つだろうかと疑問に思う。学びが少しでも好きになること、または嫌いにならないことは、思考力をつけるよりも大切だと考えるのだが、はたして。

たような生き方ってなんだ?

小学校では、不登校を減らそうとしている。

小学校の特別学級では、通常学級の復帰を目標にしているところもある。

中学校は、総合評価となり、テストが良くても、発表しなければ、

成績が4になることもあるらしい。

人前で話すことができない人がかわいそう。

たような生き方ってなんだろう。